こんにちは、大阪音大出身のギター/ボーカル講師 、Angler Ogiです。
ここまで、音大のギター科はどんなところなのか、音大の実技(ギター)レッスンはどんなものだったのか、という紹介記事を書いてきました。
今回は、大阪音楽大学器楽専攻科(ギターコース)卒である私Ogiが、音大の実技指導以外の授業について詳しく語ります。
↓今回の記事はこんな内容です↓
- 大阪音大ポピュラー科の実技指導以外の授業について詳しく解説!
- これから音楽を仕事にしたい等、音楽家を志しておられる方の役に立てれば幸いです。
実技指導レッスン以外の授業
早速、私が先行していたギターレッスン以外の授業をざっと確認してみると、このようになっています。
- 副科実技ボーカルレッスン
- 音楽理論&ソルフェージュ(クラシック)
- ポピュラー作曲法
- MIDI(デスクトップ・ミュージック)
- バンド・パフォーマンス
- インスト・セミナー
副科実技ボーカルレッスンは、専門楽器以外で実技指導をしてもらえる授業で、クラシックのピアノや電子オルガンの他、吹奏楽系統の楽器や雅楽系の楽器がありました。
音楽理論&ソルフェージュは、クラシック音楽理論と聴音(新曲視唱・初見読み含む)の授業で、難易度によりクラスが分かれています。
ポピュラー作曲法は、ポップスの音楽理論を学んだあと、楽曲のアレンジや作曲を実際に行っていく授業です。
MIDIは、SONARというソフトを使用し(当時はSONAR3)、パソコン上で作曲・編曲を行うという授業。基礎的な打ち込み方法からスタートし、最終的にはカラオケ作成等も行います。
バンド・パフォーマンスは通常2年生から始まる授業で、各楽器やボーカルの生徒が1部屋に集まり、バンド形態での曲完成を目指す、演習形式の授業です。
インスト・セミナーは、ポピュラー音楽の歴史や著名ミュージシャン等を映像と音声を交えて学んでいく、教授による講義形式の授業です。
これらを1つずつ、思い返してみようと思います。
副科ボーカル
2年から始まる副科授業ですが、私はボーカルを選択。
最初は5人でスタートした、いわゆる「90分のグループレッスン」という形式でしたが、どういうわけか徐々に受講者は減っていき、6月半ば頃にはなんと私一人に。
時折二人になったり、セメスター末テストの際に人数が回復したりもしましたが、大半の授業を一人だけで受講していた気がします。
この状況にM先生は苦笑いしつつも、個人レッスン的な形でしっかりと指導してくださった結果、私はボーカル講師としてもやっていけるようになったのです。
レッスン内では、スティーヴィー・ワンダーの曲(ハモリ)から始まり、夏ごろからは自由課題となった為に、希望だったアコギ弾き語りのレッスンに移行。
ドゥービー・ブラザーズの「Listen To The Music」、エリック・クラプトンバージョンの「Change the World」を練習しましたが、当時は「原曲キーじゃなきゃ嫌です」とよくゴネていました。(苦笑)
授業内容は、こちらの記事に詳しく書いています。
絶対音感持ちだった私は、当時はキーを下げると歌えずに苦戦。原キーでも声が出ていたために、歌えていると勘違いしていたのです。M先生の厳しい叱責が無ければ、勘違いしたまま進んでいたかもしれません。おかげで移調して歌えるようにもなりましたし、本当に感謝です。
音楽理論&ソルフェージュ
音楽理論は、1年生の後期までは正直軽い気持ちで受けていました。
また、ふざけていた同級生たちとそこそこ仲が良かった為か「同グループ」とみなされ、「可」(下から二番目)の評価を受けてしまいます。
これにより火が付いた私は、1年終了時から猛勉強。クラシック理論とポップス理論を組み合わせつつ、成績を上げていきました。
さらに元々得意だったソルフェージュ(聴音)は、自分だけが常に全問正解を出せたら、等と考えていました。今思い返しても、かなり調子に乗っていたころです・・・。(苦笑)
が、たまたま答案を交換して採点した、近くに座っていた女の子(なんと後の嫁さん!)に点数で負けたことにより、対抗意識を(勝手に)燃やしてさらにステップアップ。
最後の方の授業は、成績がかなり良かった為に、短大の授業で使う資料ではなく四年生クラスで使用する最高難易度の聴音課題を特別に課されたりもしました。
本当にキツくて、自分としては出来た実感はほぼ無かったのですが、先生からは「耳だけで仕事が出来るレベルだ!」と褒めて頂けたのが、大きな財産となりました。
上写真左側は音楽理論&ソルフェージュという形の授業で使用したもの。
和音を正確に採譜しつつ、その下にクラシックの和音記号まで記載するというものでしたが、時間が余っていた私は、ついてにポップス用のコードも書き足したりしていました。
右の聴音課題は、数か所間違いがあった2年生前期の答案。最後の音符が二分音符ではなく四分音符&四部休符であったり、といった細かな所まで要求される課題です。
この2つの授業により、音楽的知識が飛躍的に向上し、耳も鍛えられました。
ポピュラー作曲法
ダイアトニック・スケールコードやセカンダリー・ドミナントといった、ポップスで使用する理論の大半を指導してもらえる授業です。
音程の関係やメジャースケールという基礎的な所からスタートする授業ですが、5月下旬の段階でいきなりレイ・チャールズの曲がサンプルとして出てくるあたり、音大感があります。
左のノートはコード進行の勉強で、レイ・チャールズの曲を分解し、コードネームだけを授業で追いかけていました(授業は3段目の2小節目まで)。
その後別の課題をサクっと終えてしまった私が、暇つぶしに先生のコードボイシングを(勝手に)耳コピして研究していたところ、隣にやってきたK先生が、
「自分で課題を見つけるとは素晴らしいね!実はこの曲、続きはこんな感じになっていて・・・」
と、サラサラと書き足してくださったのです。
このように、この授業は「やる気がある人はどんどん先に進める上、発展形を教えてもらえる」内容だったため、とても楽しい授業でした。
日付を確認すると5月に基礎のダイアトニックをやっていたものが、6月半ばにはサブドミナントマイナーや分数コードが出てきている事を考えると、比較的進むのが早い授業だったのかもしれません。
2年時は実際に作曲を行うのですが、
- セカンダリードミナントを2つ以上登場させる
- サブドミナントマイナーや代理コードを活用する
- 部分転調や転調を~小節目に加える
- 7小節目のメロディにトップノート(一番高い音)を配置
- 5分以内に16小節の曲(メロ&コード)を(楽器を使わずに)書く
などなど、制限を設けた上で曲を書いたりします。
当時コンポーザー(サウンドクリエイター)を目指していた私にとって、この授業を受講するのが大きな楽しみでした。
MIDI(デスクトップ・ミュージック)
こちらも木曜日に行われていた、私が特に楽しみにしていた授業の1つです。
内容は、デスクトップ・ミュージックを駆使し、作曲やアレンジ等が行えるようになる、というもの。
1年時のセメスター内では、S先生が出す課題曲を10曲ほど制作し、それが終わればビッグバンド譜を見て1コーラス分の音源を作成。
2年時には、ボーカルのみが入ったデータに、独自に肉付け(アレンジ)を行う、という流れになると説明を受けました。
そう、この授業では、
- 譜面を読み進める能力
- 各楽器をバラバラに聴く能力
- 楽器の強弱・バランスを聴く(整える)能力
- 純粋なアレンジ能力
- 原曲に近い音色を探す・作る能力
- 機材を使いこなす能力(録音含む)
といった、音楽家にとって必要不可欠な能力を多数高めることが出来る授業となっていたのです。
そんな中、一人でギターを弾く事しかできなかった私は「これぞ自分が追い求めていたもの!!」と大興奮!
4月に先生に申し出て、デスクに空きがあるときはずっと教室内でパソコンを触っていても構わない、という許可を取り付けます。
その結果、昼休憩時を除く11時~18時半(時に朝9時半から)はこの部屋にいる状態となり、1年時の課題は7月頭に終了。
夏休みには生徒用に開放されているパソコンスペースに入り浸り、毎日作曲三昧。「Ogiちゃんに会うならパソコン部屋の7番のPCの前にいけ」と同級生に言われるレベルで入り浸っていました。
その結果なのか、職員の皆さまには本当に仲良くして頂き、このことが後に音大の職員として働く事へとつながっていきます。
必然的にパソコンやDTMについて詳しくなった私は、システムメンテナンスの事務員として、卒業後から4年間音大の職員として働くことになったのです。
1年後期からは、2年生に混ざって授業を受け続け(勿論単位は出ません笑)、2年になる頃には課題が無くなったためにギター科の資料を作成したりしていました。
周りからは変人扱いを受けつつも、S先生からは強烈な叱咤激励を受けながら目にかけて頂き、大学卒業後は一時音源制作の仕事をするレベルに到達。
当時はMIDIを活かした仕事に就くつもりで勉強していたこともあり、講師となった今でも、この技術は大いに活かすことが出来ています。
専攻科にいた際にはKONAMIの一次審査(集団面接&音源審査)に通過したり、ゲームの下請け会社から仮内定を頂いたりしましたが、面接官と喧嘩したり、不況のあおりで内定取り消しを食らったりといった事がありました。今ではいい経験になったと思っています。(苦笑)
バンド・パフォーマンス
バンドパフォーマンス(通称バンパフォ)は、1部屋にボーカル数人・ギター・キーボード・ベース・ドラムの生徒が集められ、授業内でボーカリストが持ってきた楽曲を演奏する、というもの。
事前に曲が配られる(手書きの譜面の配布)事もあれば、当日譜面が配られてその場で演奏、という事もある、非常に難易度の高い授業です。
通常は2年生になったら受講することが出来る授業ですが、私は1年の秋頃から参加することになります。
当時バンドで、ギターをメインにベース・キーボード等もやっていた私Ogi。
発表会の関係で、先輩方の授業でベースの人員が足りなくなった際、突如「ベースサポート人員」として声がかかったのです。
そのまま部屋に連れていかれ、譜面を渡され、まともな予見時間ももらえないまま演奏がスタート。
この時点で譜面にはそこそこ強かった為、なんとか見失うことなく完走。結果、この部屋の担当だった師匠とドラムの先生から、
「来週からこの時間空けておけ、高確率でキミを呼ぶことになる。単位はやれんが(笑)」
と通達されました。
その後、先輩方の授業が終了するまで、ベースサポートをメインに、アコギやエレキを弾いたり、時々ピアノまで担当する「便利屋」として、授業を受け続ける事になったのです。
自分が2年生になってからは、メイン楽器であるギターで授業を受講。
また、短大の専攻科に進学した後も、後輩たちをサポートする立場として(単位無しで)受講(というか手伝い?)することになったのです。
時に鍵盤を担当することもあったり、メンバーと意見が衝突して大喧嘩、なんていう事もありましたが、バンド演奏や初見の勉強として大いに役に立った授業だと思います。
インスト(楽器だけ)のバンパフォも
2年生からは、楽器だけのバンパフォも授業としてありました。
先生が出す課題曲(全て恐ろしく難曲)を、譜面作成の段階から自分たちで行い、与えられた期間内に完成を目指す、という物です。
どういうわけか3つあるクラスのうち一番上のクラスに放り込まれた私は、ついていくだけで精一杯、(音楽的に)瀕死の状況に追い込まれます。
それでも、譜面を作成したり、簡単なパーカッションをやってみたり、アコギ・エレキでセカンドギターを担当したりと「隙間産業」的な形でなんとか生き残る事に成功。
また、同部屋に親友たるマーシーがいてくれたことも、大きな支えとなりました。
上手くいかないときには呑みに誘ってくれたり、練習部屋でひたすら練習に付き合ってくれたりと、本当に助けられたことをよく覚えています。
その結果なのか、マーシーはほぼ毎週泊まりに来ていた上、多い時は週に3日くらい我が家にいましたが・・・。(笑)
圧倒的格上のメンバーに混ざって演奏出来た事、ひたすらに練習を続けた経験は、間違いなく今に活きています。
↓この記事に登場するメンバーと同じ部屋で鍛えられました↓
インスト・セミナー
教授による、ポップスの歴史や著名ミュージシャン等を学ぶための講義形式の授業です。
黒人奴隷解放の世界史が絡む内容から(1700年代後半)、戦争によるポップ・ミュージックへの影響と変遷に始まり、終戦後急速に発展していくポピュラーミュージックについて徹底的に学ぶのです。
この授業は本当に面白く、いつも一番前の席で噛り付いて講義を受け、授業後にはいつも教授の基に質問に行っていました。
多くのミュージシャンの貴重映像を観ることが出来たり、大阪音大の卒業生であるaiko氏の在学中の映像(!)も観ることが出来たという、素晴らしい抗議だったのです。
この授業を通して知ることが出来たミュージシャンは数知れず、音楽的な基礎知識はほぼこの授業で身についた、と言っても過言ではないかもしれません。
また、この授業からお気に入りのアーティストとなったグループも数知れず。様々な面から、私にとって実りのある授業でした。
その他の授業
その他の授業は、単位数を合わせる為に受講したものと、個人的に面白そうだと思ったものを選択して取り、必須であった音楽史の授業等も受講。
その中で、面白かったのは心理学。
当時の授業では、セメスター末のテストだけ無事に乗り切れば単位が取得できる、というボーナス設定でしたが(笑)、先生の話が非常に面白かったので、私は毎回欠かさず受講していました。
また、1期分だけ必須であった体育は2期分受講。
これは、子供の頃は病弱で殆ど体育に出られなかった私も、大学生の頃は体力があり元気だったため、無駄に体を動かしたかったからです。
長座体前屈で71cm(当時の音大記録だそうです)を記録したり、バドミントンや卓球で(姉もお世話になっていた)O先生にボコボコにされたり、という、楽しい記憶が残っています。
その他、あまり面白さを感じることができなかった授業も多数ありますが(日本国憲法や英語、音楽療法など)、たまに音楽以外の授業があったおかげで、より音楽の楽しみが理解できたような気がします。
授業を振り返って&まとめ
実技授業以外にも多くの授業があった大阪音大のカリキュラムですが、総じて言えるのは、やる気のある人はどんどん上に行ける、ということ。
逆にやる気のない人たちはどんどんふるいに掛けられていき、卒業する前に辞めてしまったり、留年してしまう人もいました。
しかし、当時からやる気に満ちていた同級生たちや先輩方は、皆さん音楽関係の仕事に就いています(もしくは音楽活動を続けている)。
音大に行けたから音楽で飯が食えるのではなく、やる気がある人達の周囲の環境が整い、且つ人との出会いに恵まれれば、音楽を仕事にできるのではないでしょうか。
勿論努力だけではどうにもできない壁もありますし、物理的な時間を確保することも大変です。
それでも音楽の世界は、志を高く持ち、努力を続けていくことで、裏切られない世界でもあると感じています。
いつか自分の生徒様の中から、ミツオ先生(七丁目ギター教室所属)に続いて音楽の仕事に就く方が表れるのを、楽しみに。
そして、音楽家を志す方々のお役に立てたらと思います!!
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